生きることは難しい

どこかの誰かの生活日記。いつかは忘れられるんだろうけど。

No Title

前になればなるほど読まれないよなと思ったので、記憶と感情と思考を記録に吐き出します。

最初にも書いていますが、割と死ぬ気満々です。

「死ぬ死ぬ言うやつは死なない」という説がありますが、いや正直突然じさつされたら困りません?
貸していた漫画とか返してもらってなくても困るし、遊びたいなと思いつつも先延ばしにしたら先に死なれたとか寝ざめが悪いじゃないですか。

まあ、先伸ばされている程度の友達といえばその通りですし、人生明日には不運にも終わるかもしれないので遊びたいことはちゃっちゃとやっちゃったほうがいいんですけど。

 

「死にたい」という感情は割と世の中にあふれていて*1、誰しもが思うことであると私は思っています。
その「死にたさ」を駆け引きに使う人がいるのも事実。「死にたい」ということで「死なないでほしい」と気を引きたいという人がいるのも事実。

 

でも、壁打ちブログで「死ぬ予定です」って書いて、誰が引き留めてくれるんでしょう?
というか引き留められても、見も知らぬ人に言われても普通に嫌です。私は死にたいと思って言葉に出せるまでに結構葛藤があってその先にいるのに、大して私の人生を知らない他人から「死ぬな」とか「生きて」とか言われても、普通に困る。

せめて「非課税で1000万円ぐらいあげるから生きて」ぐらい言ってほしい。私は世の中の困っていることはお金が無限にあれば解決すると思っています。
とりあえず1000万あれば、少なくとももう3年は趣味に生きることはできるかな。

 

 

話は戻って。
私は友人を知っていて、友人は私を知っているので、友人各位に「数年以内に死ぬと思う」とお伝えすると、有難いことに悲しんでくれます。

「泡沫が死んだら、私は悲しい」と。

私は決まって「ごめん」って言います。誠心誠意謝ることしか悲しんでくれる友人にはできない。
だって、友人のためだけに生きることはできないから。

「死なないで」と言ってくれはするんですけど、友人は友人で私が生きることに責任を持てないことを自覚しています。だから、淡い願いとして、”泡沫に生きてほしいと思っている人は少なくともここにいる”という意思表示として言ってくれます。

その気持ちが本当にありがたい。

「友人ならじさつを止めるのが当然」という意見もあるとは思います。
止められても普通に困るし、知的好奇心で「なんで止めようとしないのか?」と尋ねました。

そしたら
「引き留めてほしそうに言うのならうざいから止めないけど、泡沫の場合は違うでしょ? もう決めてるじゃん。死んでほしいわけじゃないから感情は伝えるけど、結局のところ泡沫次第だしね」
みたいなことが返って来まして。

 

そういやこの子以外の別の友人にも似たようなこと言われていたことを思い出しました。

有難いことに、死んだら悲しんでくれる人がいます。

私が無理をしてまで生きる理由にはならない相手ではないのが双方にとって悲しいことですね。

 

正直な話、死ぬ気満々ですが、私だって死にたくはないです。
死ぬのって絶対に苦しいし、キツいし、痛いだろうし、そんな思いしたくないし、事後処理とか死体の処理方法とかその金額とか考えるだけで「あー、面倒くせえ」って本気で思います。

でも、5年後の生きてる未来を考えるより遥かにマシ。

死なないためには宝くじに当たるレベルのお金を手に入れるか、渇望しているモノに運よく巡り合えるか、どこかの頭のネジと運命が再度狂うことがあるか、のどれかでしょう。

いまはもう、らいねんいきていることをかんがえるのもつらいです。とはいえ、来年死ぬとかそういうことではなく数年は生きている予定ですので、来年も準備したりで頑張りたいとは思っています。多分10月ぐらいには趣味である某方のオタクとして来年のチケットを抑えていることでしょうし。
でも、今はまだ来年のチケットはないので何も考えられない。今は頑張って8月まで生き残ることだけ考えています。

*1:どっちかというと「消えたい」んだろうなとは思います。